何故か悲しくなる向日葵の風景

辺り一面ずっと遠くまで咲く向日葵。
そして、一台の廃車がその風景の中にひっそりと佇んでいる。

何でだろ・・・もう、ずっと、ずっと、涙が止まらない。

今更ですが「星守る犬」読みました。

星守る犬

星守る犬

もう、表紙の絵を見ただけで切なくなってしまった自分・・・。
自分は辺り一面に咲く向日葵の風景を見ると、どう言うワケか悲しい気持ちになってしまう。昔観た映画「ひまわり」のせいなのかな・・・。

犬の「ぼく」ハッピーは「おとうさん」たち家族と本当にごくごく普通の生活を送っていたんだけれども、おとうさんのリストラ、離婚によって普通の生活は終わりを告げ、「ぼく」と「おとうさん」は南に向けて「たび」に出る。

「たび」の終焉の地で、「おとうさん」は「ぼく」に「ありがとう」と言う言葉を残して静かに息を引き取る。おとうさんの「死」と言う概念が解らないまま「ぼく」の時間は流れて行き、やがて”つかれきっちゃった”「ぼく」も静かに「おとうさん」のところへ旅発つ。

何て言ったらいいんだろう・・・。
人生最期の時に、自分の大切な人に言う「ありがとう」は、何ものにも変えがたい言葉だな、って。そう思ったからなのか、自分は「おとうさん」の死には悲壮感ではなく、むしろ何故か幸福感に近いものを感じてしまったワケです。

ところで。
星守る犬」を読んで、ちょっと考えてしまった。
作者もあとがきで書いていたけれども、ごくごく普通の人間が、人生の歯車がほんのちょっとだけズレてしまっただけでも、普通の生活を失ってしまう事が十分に有り得る世の中になってしまっていたなんて・・・。

こんな事言ってはダメなんだろうけど。
凶悪犯が刑務所で衣食住に困らなくて、普通の人が本人の努力云々ではどうにも出来ない何らかの理由で最低限の生活さえ困難になり、最悪の場合生命の危険に晒されるとか。一体いつからこんなおかしな世の中になってしまったんだろう・・・。

ちょっとだけズレてしまった歯車を、修理するために少し立ち止まる事さえ出来ない世の中だとしたら、つまらないな、そんな世の中。世の中にはもっともっと多様な生き方があっていいと思うんだけどね・・・。