気持ち的に遠い国

ヨーロッパやアフリカの国々と比べて距離的には遠くはないんだけれども、私の中では「気持ち的に遠い国」がある。例えば、北朝鮮とかミャンマーとか。以前ミャンマーの旅を考えていた時、「現在のミャンマーを旅する事は現政権にお金が流れる事になる」と言う記述を目にしてミャンマーへの旅を諦めたのだが、そのミャンマーが今大変な事になっている。

東南アジアの仏教国では尊敬され手厚く迎えられているイメージのある僧侶や一般市民に迄銃口が向けられ、それを伝えようとしていた日本人ジャーナリストが銃弾に倒れた。

アスファルトに倒れたジャーナリストの右手にはなおもカメラが握られていて、左手は何度も固いアスファルトを叩いているように見えた。これ以上ここで何が起こっているかを伝える事が出来ない現実を受け入れなくてはならない悔しさだったのか・・・と思うと本当に言葉がない。

数年前、同時多発テロ後のアフガニスタン情勢やパレスチナ情勢の事をその当時友人だった人に「どこまでもやるせない」と言ったところ、「自分のごく周辺での出来事が世界の全て。それ以外のところで起きている出来事は自分とは無関係。だから考える必要もやるせなくなる必要もない」と一蹴された事がある。

確かに、現地で傷ついた人たちの手当てが出来るワケでもなければ、救援物資を運べるワケでもない。ハッキリ言って何も出来ない。私は平和な日本で怒ったりやるせなくなったりしているだけだ。

でも、アフガニスタンの人たちもパレスチナの人たちも私も夜になれば同じ月を見上げる。世界の何処にいても(夏の北極圏は別みたいだけど)夜になれば皆同じ月を見ている。唯一違うのは、どんな気持ちで月を見ているかだけだ。

そう思うと、全くの無関心でいられるってどう言う事なんだろう。それこそ命懸けで状況を伝えようとしているジャーナリストだっているのに。報道を目にして、何かを思ったり考えたりする事は無意味だって言うのか。時に自分の意見を「言い過ぎる」のが私の悪いところだが、何か、この人私と根本的に”何か”が違う、おそらく私にとって大切だと思う”何か”の部分が・・・。

その”何か”は数年後或る出来事により決定的なものとなり、その人とは友人でなくなる事になる。互いに”何か”の溝を埋めてまで友人でいる意味がなかったと言う事だろう。「気持ち的に遠い国」があるとするならば、この人は「気持ち的に遠い人」だったんだろう。

フと見上げれば月は見えない東京の夜の空を見上げながら思う。ミャンマーの人たちが、一日も早く穏やかな気持ちで月を見上げられる日が来て欲しい、と。