何かを気付かせてくれるのは自分と同じ母国語を話す人間とは限らない

MALENA2004-06-06

先日、友人が作品を出品する展覧会を見る為に、郊外にあるギャラリーへと足を運んだ。柔らかな光が射し込むギャラリーで、友人の作品を手にしながら思う「どんな時でも自分自身を貫き、自分自身をやり続けているんだな」と。何てかっこいい人間(ヤツ)なんだろうと思う。私自身も、自分を貫き、やり続ける事は「何よりも」大切な事だと思って生きているつもりでいるが、この友人には到底「敵いっこ」ないし、この先も敵う事はないだろう。私は、尊敬と言う言葉を「大盤振舞」する事が何よりも嫌いだが、この友人の事は本当に尊敬している。

私に、尊敬と言う言葉について改めて考える機会を与えてくれたのは、意外にもパラグアイの人だった。

私のカタコト英語(笑)とは違い、彼はとても流暢に英語を話す人だった。お互い母国語が話せない状況であっても、私の英語レベルが酷くても、いざ会話が始まってしまうと、それなりに会話になってしまっている事が何とも面白い。彼は農業技術を学ぶ為にパラグアイからやって来て、この緯度の高い街の大学で日々勉学に励んでいるのだそうだった。勉強した事を、祖国の農業技術の発展に役立てたいと、それは生き生きと話してくれた。私としては、遠い異国からやって来て一生懸命に勉強している事そのものが、私には到底真似の出来ない凄い事だと思えた。やはりこう言う場合は「RESPECT」と言う表現が適切なのだろう・・・他に相応しいと思える語彙もとっさに見当たらなかった事もあり、私は彼に「すごいと思う。尊敬する」と言うと、彼は満面の笑顔で「ありがとう。でもね」と言った。「でもね」の後に続く言葉はこうだった。自分の学んだ農業技術が、祖国の農業発展の役に立った時に初めて自分は尊敬されるべきなんじゃないかな?と。尊敬と言う言葉は案外「重たい」言葉なのではないか?と私はその時改めて考える事となったのだった。尊敬と言う言葉の持つ「重さ」について。

彼は思い出したように自分の名刺を取り出して私に渡してくれた。そこにはパラグアイの彼のオフィスと思われる住所が書いてあった。そして彼は言った「パラグアイに来る事があったら、是非僕のところに寄ってほしい」と。
その後、私は南米にもパラグアイにも特に興味を持つ事も無く、彼のオフィスを訪ねる事も勿論無かった。彼は今どうしているのだろう?もしも、今彼に会ったとしたなら、私は改めて彼に「尊敬」と言う言葉を言えるような気がしてならない。

その後、私は尊敬と言う言葉の「大盤振舞」を止め、自分が「本当に」この言葉を遣いたいと思う時(人)にしかこの言葉を使っていない。「何て重たいヤツなんだ」と思う人もいるだろう。でも、いいのだ。誰にでも大切に遣いたい
言葉はある筈だ。私にとってそれは「尊敬=RESPECT」なのだ。

最近、最も私の魂を揺さぶった「言葉」は、イラクで亡くなったジャーナリスト橋田信介氏の妻の言葉だった。
「ジャーナリストとして尊敬しています」
この言葉のもつ意味の「深さ」に私は、ただただ涙する事しか出来なかった。