「女の子」と言う生き物。

MALENA2004-06-08

佐世保市で起こった小六女児事件。世間では「女の子」と言う生き物をどう考えているのだろう?私は、この事件とは全く別の視点で「女の子」と言う生き物について改めて考えてみる事にしようと思う。

遥か昔!?私が小学生だった頃から「女の子間」に於けるこのような問題は存在していたように思う。友達の自分に対する接し方がある日突然豹変し、どうにも腑に落ちない気分で給食を食べた経験は、誰でも一度や二度はある筈だ。一体あれは何だったのだろう?と思う。このある種「不可解」とも言える行動は、この年代の女の子特有のものなのだろうか?半ば暗黙の了解でグループ単位で行動する事は、中学生迄続いていたような気がする。毎回のように通信簿に「協調性に欠ける」「団体行動が苦手」と書かれていた私に至っても、流石にこの時期「だけ」は、現実を見誤る事は或る意味危険であると鈍く認識していたような気がする。

小学五、六年から中学一年位の女の子と言うのは、精神的にも、身体的にも凄く微妙な状態の生き物に思えてならない。「まだ女の子でいたい」のに「もう女の子ではいられない」突き付けられた「現実」に自分自身どう対処したら良いのか解らなくて、悲しいような切ないような、でも何かを決断しなければならないような・・・故に不安定この上ない気持ちが渦巻いてしまうのだろう。
私の場合は、あっさりと「もう女の子ではいられない」事実を受け入れたのだが、この年代のこの時期に、この問題を放置したしたまま成長した女の子は、大人になっても無意識のうちに「女の子」をやり続けているような気がしてならない。常にグループで行動していないと不安に陥ってしまう人は、まさしく女の子をやり続けている人と言えるだろう。ランチメイト症候群の為に会社を辞めざるを得ない人もいると聞く。一人旅、一人飯、一人映画、一人漫喫!?のように一人行動が普通の私にとっては「まさか」と思わずにはいられないが、そう言う現実は往々にして在り得る事なのだろう。グループ行動自体を、良いか悪いかで判断する事は出来ない。しかし、不本意ながらもグループ行動をしているのであれば、それは直ぐにでもやめた方がいいと言えるだろう。群れの中に身を置くと確かに安堵感は得られるのかも知れない。でも、群れから離れ、ある種の安堵感から解放される事によって「見えて」来る事も必ずある筈だ。人は「何か」を得ている間は得ている事に気付かない。失った時に初めてその「何か」に気付く。私は、その「何か」が自分にとって何を意味するのを理解する事が大切な事のように思えてならない。