冬ソナ第10話。折り返し地点。

MALENA2004-06-12

冬ソナこと「冬のソナタ」今回で丁度半分が放送された事になる。
今日もドラマの放送時間中に「限ってのみ」ユジンに「なりきって」いた女性は、日本全国津々浦々いたのであろう。実生活に於いては、ユジンの母親位の年代の女性であっても、おそらく冬ソナを観ている時だけはユジンに感情移入しながら観ているのであろう。ユジンに「なりきる」のに年齢は一切関係無いのだろう。

正直言うと、私自身も時々無意識の内にユジンになっている瞬間が無い事も無いが・・・(笑)それだけユジンと言う役柄は、或る意味女性にとって感情移入し易い、と言うよりはむしろ感情移入したくなるような役柄なのかも知れない。今後、おそらくストーリーは更に切ない展開となって行くのであろう。更にか・・・今日の展開だって結構切なかった筈だ。恋愛に限らず、自分と係わり合いのある人間関係に於いて、誰かを「傷付ける」と言う事は、本当にこの上なく辛い事だと思えてならない。「傷付ける」位なら「傷付く」方が幾分辛くは無い筈だ。ただし、ここで間違ってはならない事は「傷付く」のであって、決して「傷付けられた」と思ってはいけないと言う事。「傷付いた」のであれば、その後時間の経過によって解決されるか、それを忘れるような出来事が起こる事によって、傷付いた記憶は上書きされ「そんな事もあった」と思う事が出来る。しかし「傷付けられた」と思ってしまうと、その時点で時間の経過が滞り、それによって何の出来事も起こらないが為に、記憶の上書きがされにくくなってしまうように思えてならないのだ。実際は「傷付けられた」のであったとしても「傷付いた」と理解した方が「傷」の治りも早い筈だ。傷口が膿だらけなんて辛い事この上ないだろう。でも膿さえ出してしまえば、いつか必ず治る日が来る。では「傷付ける」方はどうだろう?誰しも「傷付ける」経験の方が圧倒的に少ない筈だ。正直これはかなりキツイと言えるだろう。何故なら自分で自分に「オトシマエ」をつけない限り、記憶を上書きする事を「許されない」から。いずれにせよ、私自身誰も傷付けたくないし、傷付くのも嫌だ。
そう考えると、こんな事を考えるのはせめて冬ソナ放送時間中だけにしたいものだ、と思わずにはいられない。