それは、余りに悲しい映像。

ファルージャが米軍によって総攻撃されてから数日が過ぎた。大義名分の名の下に、一体どれほどの命が砲弾が絶え間なく飛び交う空の下に散っていったのだろう。容赦なく破壊される民家、モスク。住宅街に立ち上る砲弾の煙。呆然と裸足で立ち尽くす幼い女の子。彼女の瞳に涙は無い。この戦争は、幼い彼女から悲しみや怒りと言った感情までをも奪ってしまったのだろうか。悲しみさえ感じなくなってしまった人間が、ある日自分の中に憎しみと言う感覚が覚醒した時、その人の「すべて」は憎しみと言う感情に支配されてしまうのだろうか。イラクでの惨状を見ていると、もう既に「悲しみ」の領域を遥かに越えてしまっているように思えてならない。憎しみの連鎖は、更なる憎しみしか生み出さない。誰もが解っているのに事態は悪い方悪い方に転がり続ける。ただ報道を目にする事だけ「しか」出来ない自分。あの幼い女の子に笑顔が戻って来る日は一体何時なんだろう。祈るだけしか出来ない自分が悲しい。アラファト議長が亡くなったパレスチナはこの先どうなってゆくのだろう。重装備のイスラエル軍に対し、投石で応戦するパレスチナの人々の映像を何度目にした事だろう。自らの身体に爆弾を括り付け、自爆していった若者の報道を何度耳にした事だろう。ヨルダン川西岸に、穏やかな時間が流れる日がやって来るのは一体何時なんだろう。悲惨な状況を目にして、これらの状況に対して、悲しみや時に怒りを覚える感情に国籍や宗教の違いは関係ない筈。私は、一人の人間としてこれらの事を考える事を決して止めようとは思わない。