「静」を通して見えるもの。

MALENA2005-04-04

午前6時。バスを降りた途端感じるひんやりとした空気。見上げる空は、ちょっとだけ不機嫌そうな淡い灰色をしている。

夜行バスに乗って、約一年振りに降り立ったその場所は京都駅八条口
昨年訪れた時は桜が満開だった。たとえ満開じゃなくても桜が見られるといいなぁ。この街にはaoiさんが住んでいるんだなぁ、と思いながらフラフラと歩く。旅の始まりだ(笑)

今回京都を訪れた理由は、どうしてももう一度見たい場所があったから。
昨年その場所を訪れた時、私はやや暫くの間そこでいろいろな事を考えていたような気がする。じっとしている事が苦手な私。それ故にその場所が放つ「空気」と向き合う事は、私にいろいろな事を教えてくれるような気がしてならないのだ。

どうしても見たかった場所は、龍安寺の「石庭」
その空間が放つ「静」の空気は、或る種の激しさみたいなものを孕んでいるようにも思えてならない。上手く言葉には出来ないけれども、「静」を通して「動」を見る、とでも言うか「静」を通して「音」を感じる、とでも言うか・・・。石庭を眺めていると、木の葉が風に揺れる音や、鳥の囀りが「深く」聴こえるように感じるのはその為なのだろうか?昨年ここを訪れた時、私の隣に座る欧米人が(多分)こう呟いていた「ここは小さな宇宙だね」と。そうか・・・ここは或る意味「宇宙」と呼べるのかも知れない。

静の空気を放つ石庭。が、しかし・・・。拝観する人間はと言うと・・・。
欧米人の拝観マナーは際立っていい。とにかく静か。それに比べて我日本人はと言うと・・・。石庭とは無関係の話に花を咲かせ、大声で笑う始末・・・。石庭は笑える場所ですかぁ!?(苦笑)大声で叫び、騒音を立てて走りまわる中国の人達の事「マナーがなってない!」なんて言えないですよ、それじゃ・・・(苦笑)

小一時間程石庭を眺めながら、あれこれと考え事をする。日常生活の中では、静かに、じっくりと考え事に”集中”するのはやはり難しい。故に、こうして考え事に没頭しながら過ごす時間は、私にとってはかけがえの無い時間。

旅はいつだって私に「何か」を気付かせ、そして教えてくれる。