「存在」と「無」の間を行き来する足音たち。

MALENA2005-05-10

今から約二千五百年前にこの場所に佇んでいた人も、私と同じようにこうしてこの空を見上げたのだろうか?

まるで真夏の太陽のような強い陽射しに目を細めながら、私はペルセポリスの空を見上げていた。きっと二千五百年前からここの空は変わらずに青かったんだろうな、と思いながら。

二千五百年前の建造物の一部がこうして残っていて、その中に自分が立っている。何となく不思議な感覚だ。そして、どことなく寂しげ。世界遺産であると同時に、ここは廃墟でもある。廃墟の地中深くから送り出され続ける「寂しげな音たち」が微かに聴こえるような気さえする。故に私は廃墟に惹かれてしまうのかも知れない。

高校三年の時は世界史を選択していたにもかかららず、受験は日本史!と決めていた私は殆どと言っていい程、世界史は勉強しなかった(苦笑)イランを旅する事になり、それこそ”ぼんやり”と「ササン朝ペルシャ」と言う言葉を思い出したくらいだ(笑)が、しかし「ゾロアスター教」と言う言葉は何故か覚えていたんですよねぇ・・・(笑)ペルセポリスをてくてくしていると、フと見覚え?のある彫刻が。コレって世界史の教科書で見たような・・・。

ペルセポリスは、ペトラ遺跡(ヨルダン)パルミラ遺跡(シリア)と共に「中東の3P」と呼ばれているんだそうだ。残り二つの”P”も、機会があればこの目で見てみたいと思わずにはいられない。

小高い場所からペルセポリス全体を見渡す。
大昔、完成迄に二百年余りの歳月を要した建造物の一部がこうして「ここにあること」にイランの「懐の深さ」のようなものを垣間見たような気がした。が、しかし、ペルセポリスのように国によって保護されている遺跡はほんの一部に過ぎず、イラン国内に存在する遺跡の多くは国によって保護されていないのだそうだ。近い将来、風化の果てにその存在が「無」となってしまう遺跡があるのだろうか?

「かたちあるもの」は、いつの日かやがてその「かたち」が「無」となる日がやって来る。廃墟から感じられる「寂しげな音たち」は「存在」と「無」の間(はざま)を行き来する「足音」のようなものなのかも知れない、とさえ思えてならなかった。