行きはよいよい帰りは・・・

MALENA2005-08-21

そこに自分が探しているかも知れない「何か」があるならば、たとえ橋が架かっていなくても川を渡り、頂上の見えない山を登り、底の見えない谷を飛び越えようと思うだろう。自分にとって掻き集める事が可能な限りの勇気だけを両手に握り締めて。

私の目の前には、斜度が70度以上はありそうな階段が構えている。
横幅はそこそこあるものの、縦幅は私の足の大きさ(日本サイズ24.5cm)の半分程にすら見える。そして、段数は有に50段以上はありそうな階段に手すりのようなものは無い。この階段を上り(登り?)きるのに必要なものは、己の足と手と、そして「勢い」だけのように思えた。

たかが階段、されど階段。
所謂「高所恐怖症」の私にとって、この急勾配の階段を上ると言う事は、そこそこ、いや結構な精神的抑圧を感じるものなのだ。決して途中で後ろを振り返り、ましてや下を見てはならない。しゃがみこみたくても、しゃがむスペースなんて無いんだから!!!

アンコールワットの中央搭(一番高い塔)に一番近づける場所に辿り着くには、この階段を上るしかない。そう思うと、階段を上ると言う行為に対してアッサリと諦めがつく。最初の階段に足をかけた瞬間は、おそらく何も考えていなかったのだろうと思う。勢いも無ければ気合も無い。「無の境地」に近かったような。ユルユル〜と足をかけ、手をかけ。ユルさ加減が適切!?だったのか、難なく階段を上りきる。時間にして一分かからなかっただろう。予想通り階段の縦幅は私の足の大きさの半分程しかなかったので、両足を180度に開いた状態で上る羽目に。俗に言う「がに股」で、手を使いそれこそ這い上がるようにユルさ加減満点で上る自分の姿・・・。嗚呼!想像するに耐えない!!!(笑)

急な階段を上りきるとそこには穏やかな風が吹いていた。鳥の囀りも聴こえる。見渡せば遠く迄広がるジャングル。いつの時代にも人々はこの風景を目にして来たのだろう。そして、中央搭もまたここの風景を見守って来たのだろう。平和な時代も、そして混乱の時代も。

写真を撮る人。彫刻を見つめる人。風景を眺める人。石段に座り語らう人。本を読む人。何かを書いている人。階段を上りきったところでは、皆思い思いの時間を過ごしていた。

穏やかな風に吹かれながら、石格子の窓からジャングルの風景を眺めながらフと思う。「はて、階段を上ったと言う事は当然下りるって事だよな・・・」と。そうだった・・・。帰りはあの急な階段を下りなければならないんだった・・・。思わず絶句・・・。上るよりも下りる方がよっぽどコワいじゃん・・・(泣)

手すりがついている階段には長蛇の列が出来ていた。この階段に少なからず恐怖心を抱くのは皆同じなのか。階段を下る為踊り場に立つ。思っていた通りコワい。上りと違い下が見える状況に思わず足が竦みそうになる。でも、しょうがない。下りるしかないから。上り同様ユルユル〜っと足をかけ、手をかけ横になりながら一段一段下りる。最初の三分の一さえ下りてしまえば、後は何てことはなかった。

階段を下り石段に腰掛けているとフと日本の童謡を思い出してしまった。
「♪行きはよいよい帰りは怖い♪」
「♪怖いながらも通りゃんせ通りゃんせ♪」

何事にも「表と裏」があり「光と影」があると言う事なのだろう。そしてまた、どちらかの存在が欠ければ、もう片方の存在は成り立たない。一見相反するように見える二つの存在は、実は微かな点で繋がっている。カンボジアと言う国が現在放っている光が穏やかだと感じるのは、つい十年程前迄は暗い闇に包まれた影の時代があったからこそそう感じるのかも知れない、と思った。