国際貢献。本気でやるなら、そんな簡単なモンじゃない

MALENA2005-09-10

その女性は険しい表情で大きな声で何かを言いながらバスの窓を叩く。片手には赤ちゃんを抱えて。ダン!ダン!ダン!そして左手を差し出しながら言う「ワンダラー!」と。日本で言うなら小学校低学年と思しき年齢の男の子が悲しげな表情で叫ぶ「ワンダラー!」と。

右腕に抱えた赤ちゃんはおそらく「借り物」フとした瞬間、男の子の顔は悲しげな表情を「維持」出来なくなる。通りすがりの旅行者に、いとも簡単に「見抜かれて」しまうようでは、物を乞う事を生業にしてはいけない、と私は思う。

斜め後ろの男子高校生は言う「日本人は簡単にお金をあげちゃうからダメなんですよ」と。私は言う「そうだよねぇ。ダメだよ。それに、ダッシュしてこれだけ力強く窓を叩けるんだから基本的にこの人たちは明日の食料に困ってはいない。だからお金を渡す必要なんかない」と。そこへ斜め前のおじさんが話に割って入る。このおじさん行く先々で物売る子供に囲まれては買うのか買わないのかハッキリしない態度で、出発ギリギリになってから一人から一個だけ買う、と言うスタイルを貫き通してみたり、お菓子をバラ撒いてみたり、写真を撮っては1$あげてみたり。「私は貧乏人だけど、こうして現地にお金を落とす事によって”国際貢献”しているんですよ」と。

・・・ハァ?今何て言ったアンタ。国際貢献だって?

どう言うカタチで貢献するのかは個々人のやり方やスタイルがあって当然だ。だから、このおじさんのやり方もアリなんだろうとは思う。でも、ハッキリ言って私は吐き気をもよおすほど嫌いだ、このおじさんのやり方。いとも簡単に1$札をあげる事が国際貢献

お揃いのユニフォームを着て、街の美化に勤しんでいる人たちの日給が1$。警察官の月給が40$。大人が働いて得る報酬。子供だからと言う理由で、写真を撮っただけで1$札を渡す国際貢献なんて有り得ない。子供が売った方が観光客は買ってくれるから、と親は子供を学校に通わせなくなる。教育を受ける機会を奪われた子供が、やがて物売りとしての賞味期限が切れた時はどうなるのだろう。お菓子を貰った子供が虫歯になったらどうするのだろう。このおじさんは教育を受ける機会を与えるのだろうか。治療費を出すのだろうか。

1$札を渡す度に「この国に貢献している」と言う思いで満たされているかも知れないおじさんには申し訳ないが、その国が抱える問題は、その国の人々の手によって解決して行くしかない、と私は思う。極端な言い方をすれば、この国の将来を思うのであれば、数日しか滞在しないような通りすがりの観光客が無責任な事をしちゃいけない、と私は思うのだ。


バスに乗る直前、当然のように男の子に1$札を手渡していたおじさんは私と男子高校生に向かって言う「違うんだよ。この人たちは働く場所がなくて現金収入を得る事が出来ない可哀相な人たちなんだよ」と。・・・コイツ、救いようがない。可哀相?そんな同情、耳にしただけでも胸クソ悪い。私がおじさんの発言を思い切り無視したのは言うまでもない。

後で聞いた話だが、この物乞いっ子地元ではちょっとした有名人なんだそうだ。毎日郊外にある家からトゥクトゥク(バイクタクシー)で街の中心まで”通勤”し、半ズボンのポケットは観光客から貰う1$札で膨らんでいるんだそうだ。そんな彼はコンビニの常連で、毎日のようにコンビニにタムロしているんだそうで。フとした瞬間に悲しげな表情が維持出来なくなるはそう言う理由からだろう。

そう言えば、トンレサップ湖にいった人たちが口を揃えて言っていた。発泡スチロールの破片につかまり、泣きながら泳いで来る子供が大勢いて、そんな現実を見てショックだった、と。皆はどの現実にショックを受けたのだろう。これも聞いた話だが、彼等の多くはベトナム人で現実を知っているガイドが「あっちに行きなさい!」と言ってもクメール語が解らないフリをし、嘘泣きの芝居を止めないんだそうだ。嘘泣きを見抜いてショックだったらいいのだが、単に泣いている子供が可哀相でショックだった、だからお金をあげた、と言うのならば、私にとってはこっちの方がショックだと思えてならない。

通りすがりの観光客が気紛れ同然にバラ撒く1$札では将来的に国は豊かにはならないと思う。子供たちがせめて最低限の教育が受けられるようになり、将来国の発展を担って行く為にも、ただお金や物を与えるだけの国際貢献ならしない方がマシだと私は思う。私はこの先どこへ行ったとしても、このようなケースに遭遇した時は「お金や物を簡単に与えない」と言うスタンスを貫きたいと思っている。