無になると言う事の尊さ

考え事ばかりしていて頭が煮詰まっていたので(笑)半分ほど読んでいた千利休を一気読みする。

千利休は最後にこんな言葉を残したそうだ。

人生七十  じんせいしちじゅう
力い希咄  りきいきとつ
吾這宝剣  わがこのほうけん
祖仏共殺  そぶつともにころす
提ル我得具足の一太刀   ひっさぐルわがえぐそくのひとったち
今此時ぞ天に抛   いまこのときぞてんになげうつ

「我が人生七十年
喝!
私がこの宝剣で
私とそして仏も祖先も師も否定して
完全に自由自在な大宇宙との一体感に到達し、無になろう」

利休遺イ曷(りきゅうゆいげ)


そしてまた、漫画の中で千利休はこんな事も言っている。
「金だろうが木屑だろうが、まどわされない自分にはついになれなんだ」と。

千利休ほどの美意識と審美眼をもってしても、まどわされない自分にはなれなかったと言うのか・・・。

そしてまた、利休は遺言の中で全てを否定して無になると言っている。
あれ程の美意識も審美眼も、そして善いか悪いかは置いておいて、茶の湯での功績も何もかも否定して無になる、と。

千利休は何故に無を求めたのだろう。
私にとって、無と言う概念は途方もなく彼方にある”存在”で、そしてまた途方もなく尊い存在に思えてならない。それはおそらく、私はまだ無と言う概念を知り得る段階にはおおよそ到達していないと言う事なのだろう。私程度の生き様なんかでは、決して無を求めたりしてはいけないのだ。

千利休は、その生き様に於いて、自らの手でいろいろな事を得たからこそ、人生の最期でそれらを自ら否定し失う事を厭わなかったのだろう。そこ迄の人生観に到達しなければ、無と言うものを求めてはいけないのかも知れない。

千利休と言う人は、己の美意識をもってして最期を遂げるとは・・・。もう私は言葉もない。

千利休の事、もっと知りたいと思った。