「同志」と「同士」

それは、確か私が高校生の時の出来事だったと記憶している。

隣の家のおじいさんが亡くなった時、おじいさんを「送る会」で、妻であるおばあさんは、おじいさんの事を「同志」と呼んで送ったのだそうだ。インターナショナルの歌声と共に。穏やかで優しく、何時も笑顔を絶やさないおばあさんの口から発せられた「同志」と言う言葉。私としてはイデオロギー云々はさて置いて、この「同志」と言う言葉に全身の細胞がざわめく事となる。

が、しかし。
この「同志」と言う言葉、「かの国」を思わず連想してしまうが故に、一般的には決して印象は良くはないように思う。自分がそのイデオロギーに対してどのような見解を持っているのかを明確にしてからでなければ、どちらの見解にせよこの言葉を用いるのは非常にキケンなんじゃないかと思う。

と言うワケで。
私個人は、思想的には右でも左でもありません。

昨日友人と話をしていた時の事。恋愛関係に於いて、互いに「見つめ合う」恋愛と「同じ方(方向)を見る」恋愛とでは、どちらが自分にとっての理想形か、と言う話題になったのだが、私の場合は絶対的に「同じ方を見る」関係だ。極論かも知れないが、私が思うに「見つめ合う」恋愛は「同士」で、「同じ方を見る」恋愛は「同志」どれだけ自分と性格や好みが似ているかを重要視するのが「同士」で、性格や好みは違っても、目指すモノの方向性が同じかどうかを重要視するのが「同志」なんじゃないかと思う。

例えば、敵が自分たちの領地に攻め入った時、手を取り合って守るのが「同士」で、手を取り合って戦うのが「同志」爆撃の最中、共にシェルターを作るのが「同士」で、共に戦闘機に乗るのが「同志」守る事も戦う事も、血を流す事に変わりはない。でも、同じ血を流すのであれば、私は戦って血を流す方を選びたい。

隣の家のおばあさんは、おじいさんと共に同じ志の下に人生を戦いながら生きて来たのだろうか。物静かで穏やかな老夫婦からは想像がつかないな・・・。おばあさんは、何を思いながらおじいさんを「同志」として送り出したのだろう。そこには、恋愛と言う感情を超越した魂レベルでの強い絆の結びつきが在ったような気がしてならない。

恋はちょっと違うと思うが、愛情と言う感情と、真正面から真面目に向き合い、全うして行った果てに辿り着く場所は、きっと魂と魂が結びついた強い絆なんだろうな、と思った今年3日目。

恋愛関係に於ける「同志」と言う関係。コレって私にとっては究極の恋愛形だと言えるよな。(はぁ・・・そんな事ばかり言ってるから、アンタは未だに”負け犬”なんだよ。それも”究極”のね!)

いや〜いや〜、今年は戌年だし。ただの負け犬じゃなくて、究極の負け犬なら或る意味本望ってモンだよ!(早速毒吐いたな。カワイくねーーーーっ!笑)