その目は、穏やかで優しい

MALENA2006-05-19

未だ見ぬものに対して、一片の情報だけでそのものに対する勝手な想像を猛烈に膨らませてしまう事が私にはよくある。

チベットの旅の時も、昔雑誌で目にした一枚の五体倒地の写真から、五体倒地する人々で溢れるラサを勝手に想像していたものの、実際は街中で五体倒地する人々を全く見かけず、想像でパンパンに膨らんでいた風船が一気に弾けてしまった記憶がある。

”その島に住む人々に、水牛は手紙や生活必需品なんかを運んでいるのかぁ。孫からの手紙を待つお年寄りは、水牛が来るのを今か今かと心待ちにしている。嗚呼、なんだか心和む光景だなぁ”

またもやたった一枚の写真から、私が想像を膨らませていた由布島
実際は、由布島には生活している人は無く、水牛はそこにある観光施設に人々を運ぶ仕事を担っていたワケで・・・。折りしも連休と言う事も手伝い、水牛車には10人ほどが乗り込んでいる。・・・なんか・・・仕事とは言え・・・とてもじゃないけど水牛が気の毒でならない。

札幌に住んでいた頃、毎年観光シーズンになると大通り公園のあたりに観光幌馬車と言うのが登場するのだが、私はこの観光幌馬車が嫌いで嫌いで仕方なかった。交通量の多い中心部を、優しい目をした大きなドサンコは、どことなく俯きながら馬車を引いていた。馬は音に敏感な繊細な動物なのに。クラクションが頻繁に鳴り響く騒音も半端じゃない交通量の多いアスファルトの道路は、排気ガスで空気も悪く、真夏は照り返しがキツイだろう。そんな極悪条件下でおとなしく馬車を引くドサンコ。それなのに、ドサンコの目は余りにも優し過ぎて、私は猛烈に悲しくなった記憶がある。

水牛を見た途端、その記憶が甦り・・・。正直、気乗りしなかった水牛車乗りだったワケで・・・。途中、立ち止まったりオシッコをしたりしながら、水牛はあくまで自分のペースで由布島に到着。水牛使いの人たちが、皆水牛の事を大切にしている事が救いだったが。

一仕事終えた水牛の角を触ってみると、ほんのりと温かかった。感謝の意を込めて額を撫でる。ゆっくりと瞬きするその目は、どこまでも穏やかで優しかった。