お地蔵さんがやって来る

MALENA2007-01-09

お坊さんの話しを聞き終えお寺を出れば。
人!人!人!そして、人!!!ざっと百人近くはいるだろうか。皆それぞれに何か思いを抱えているのだろう。

龍安寺から御室仁和寺方面に戻り昭和の香りが漂う京福電鉄に乗る。途中で電車を乗り換え一路終点嵐山に。嵐山からは渡月橋前からバスに乗り終点の苔寺鈴虫寺でバスを降りる。数年ぶりにやって来た鈴虫寺。バスの乗客は皆が皆鈴虫寺に向かって歩いていた。

数年前の春。私は全ての事に於いて煮詰まっていた。それもかなりの度合いで。唐突に狂い咲く桜の花が見たくなって京都を旅する事を思い立ったのだが、その時友人が「鈴虫寺ってお寺に行くと願い事が叶うらしい」と教えてくれたのだった。

へぇ。折角だから行ってみようかな。と言うワケで訪ねた鈴虫寺。お坊さん曰く、このお寺には草鞋を履いたお地蔵さんがいて、お地蔵さんに一つだけ願い事をすると(同時に住所と名前を必ず伝える)願いを叶えにやって来てくれるんだそうだ。ここで大切な事は、願い事は「身の丈に合った」願い事じゃないと叶わないんだそうで。

とにもかくにも煮詰まっていた私。「自分らしく生きられますように」とお地蔵さんに願ってみる。旅から戻って一週間くらいは毎日京都の方角に向かって鈴虫寺のお守りと共に願ってはいたものの、根が無精者故にお願い事はフェードアウトの一途を辿り・・・。

が、しかし。
結論から言うとお地蔵さんはやって来た、と思う。京都の旅の一ヵ月後インドを旅し、インドの旅の事をはてなに書き始め、それによっていろいろな方々と出会う事が出来、猛烈に煮詰まっていた私の世界は猛烈なスピードで煮詰まり状態から解放され広がって行く事となり。その後チベットを旅し、チベットから戻って一週間後に札幌の事務所を閉鎖する事が決まり、大波に飲み込まれてしまいそうになった時はたくさんの人たちが励まし勇気付けてくれた事もあり、その二ヵ月後私は転勤し東京で働く事となる。その全てが「自分らしく」とは言えないかも知れないが、お地蔵さんの御利益もあったのだろうけれども、そこには何時も自分の意思があったような気がする。

本当ならばお願い事が叶った時点で鈴虫寺にお礼を込めてお守りを返さなければならないそうなのだが、転勤等々のどさくさに紛れてお守りは返却出来ず・・・。しかも、私は転居していたんだった・・・。と言うワケで、少々時間は経過してしまっていたものの、感謝の気持ちと共にお守りを返却する事に。

今思えば、数年前とことん煮詰まっていて良かったんだと思う。
中途半端にしか煮詰まっていなかったら「何かをしたい」と言う意思は持てなかったと思うし。って、中途半端な事は大嫌いだからどのみちとことん煮詰まっていたとは思うけど(笑)

抱え込んだ思いを何とかするキッカケが鈴虫寺でもいいと思う。人は誰しも365日強くはないし、弱い部分だってたくさん持っている。それは決して悪い事でも何でもない。今こうして自分が生きていて、自分のしたい事が出来る事に感謝しながら日々生きて行く。これが一番なんじゃないかな。

漫然と生きていく先に開ける道は一つとしてない。
でも、意思ある先には絶対に必ず道は開ける、と私は思っている。

・画像の鈴虫寺は数年前に訪れた時のものです。
今回はぼんやりしていて撮り忘れてしまいました・・・(笑)