知恩院の大鐘楼を見て思い出した事

MALENA2007-01-16

一瞬周りをワッと取り囲まれてしまったかのように身動きが取れない。そして、何とも言えない圧迫感と共に感じる息苦しさと全身にずっしりと感じる重さ。沖縄の玉陵(たまうどぅん)の時と同じだ。いや、若干強力かも知れない。大量に「石」がある場所は身体に合わないのだろうか・・・。

知恩院の方丈庭園を散策して出口に辿り着く。出口の先は右に行っても左に行っても墓地。左に行くと千姫のお墓があるらしいので、出口を出て左の方に数歩歩いた時に突然やって来た状況に私はやや戸惑っていた。お墓参りでもないのに墓地に足を踏み入れたのが良くなかったのだろうか・・・。それとも、多くの墓石に使用されているらしい花崗岩から圧迫感を感じるような物質でも放出されていたりするのだろうか・・・。挨拶もなく墓地に足を踏み入れてしまった事を心の中でお詫びし、心の中でお題目を唱えながら墓地を後にする。

御影堂迄戻り更に歩いて行くと、「大鐘楼」と書かれた案内があったので行ってみる事に。緩やかな斜面を登った先に大鐘楼はあった。文字通りの大きな鐘を眺めていると、猛烈に「少林寺への道」の修行のワンシーンが思い出される。

未だにそれが何の修行なのかは分からないのだが、中に修行者が入った鐘を指導者?がゴンゴンと撞き、修行者は鐘の中で反響する音や振動に鼻血を流しぶるぶると震えながらも耐える。他の少林寺モノでは観た事のない修行シーンだっただけに強烈に印象に残っていたのだろう。最後に次々と銅人を倒して行くシーンよりも思い出すのが先だったようで・・・。

晦日の夜、知恩院の大鐘楼でも煩悩を祓う為に百八回この大きな鐘が撞かれるのだろう。私のように煩悩の塊のような人間が、大晦日を境に煩悩に塗れず生きて行く事は不可能な事は百も承知だ。でも、一つでいいから必要のない煩悩は捨て、意味のない拘りも捨て、この先の人生に持っている必要のない荷物は捨て、心身共に身軽になって新しい年を迎えたいとフと思う。常日頃モノそれぞれの存在に意味や必要性があると思っている私の事だから、何かを捨てるのは至難の業かも知れないが、そもそも意味や必要性があると思う時点で煩悩塗れなんだよな・・・(苦笑)時には意味や必要性が「無い」と思う事を知るのも良いのだ、きっと。

旅に出ると、ぼんやりとではあるけれども「何か」が見えて来る事もある。
「何か」を見つける為に旅に出るのか、はたまた旅に出るから「何か」を見つけるのか。それらに答えを出す事に意味や必要性はないのだ、きっと。