満ち溢れる生命と尽き果てた生命

MALENA2007-01-22

知恩院を後にし足が赴くままに歩いていると高台寺の入り口に来ていた。
高台寺と言えば。
確かジークフリートさんが紅葉の頃清水寺を訪れた時に高台寺近くのカフェで何やら美味しそうなモノを食べていた筈!もしやここか!?と思い入ったお店は「都路里」と言うお店。おぼろげな記憶では、祇園にある同じ名前のお店には長蛇の列が出来ていたような。ここは支店なんだろうか?

メニューを目にして直ぐにここがジークフリートさんが来たお店ではないと判ってしまったが(食事メニューが殆どなかったので)お抹茶と甘味がセットになった「おうすセット」をいただく事に。お抹茶のほのかな苦味と共にいただく甘味は、やはり”真っ直ぐな美味しさ”だ。

その後は折角なので高台寺を見学する事に。
高台寺豊臣秀吉夫人北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うために開いたお寺なんだそうだ。正直、まかり間違って「金ピカの間」なんかがあったらイヤだなぁ・・・なんて思っていたのだが、境内は特別華美な装飾があるワケでもなく、お庭には趣きがあるし、本堂と霊屋(みたまや。秀吉とねねが祀られている)を結ぶ「臥龍廊」と呼ばれる屋根付の階段は思わず上ってみたくなるような風情をしていたりして、私の”オカシナ心配”は全く以って無用だったようだ・・・(笑)

僅かに残る紅葉を眺めながら、紅葉の季節や桜の季節はきっと美しいところなんだろうなぁ、と思いながら散策していると地面に落ちた紅葉の朱色と草の緑色とのコントラストが余りにも美しい事に目を奪われる。

紅葉の葉は枝から離れた時点で植物としての生命は無くなっている筈なんだけれども、地面に重なる紅葉の葉は、枝から離れる前とはまた違った美しさで地面に重なり合っていた。そして、その下から覗く草は生命に満ち溢れている事を象徴するかのような緑色をしている。

生命に満ち溢れるものと生命が尽き果てたものの間に存在するものは無く、そこに在るのは悲しいくらいに美しい色の重なり。そして、満ち溢れるものにも尽き果てたものにも存在する生命のかたち。

生命あるものは、何時の日か必ずその生命が尽き果てる時が来る。紅葉の葉が枝から離れて行くように。尽き果ててもなお生命のかたちを残す事が出来るのは、ヒトでも動物でも植物でも生命が尽き果てる瞬間迄「自分らしく」生きた者だけに与えられる「かたち」なのかも知れない、とフと思った。