悟り、無、在るがまま。それは説明のつかない何か。

「仕事断った・・・うん・・・全部、断った・・・」と呟いた友人Sの声は、果てしない哀しみを孕んだような声に感じた。
無言で頷きながら私は言う「今は体調回復に専念して、体調が良くなったらまた(仕事を)するといいよ」と。

この時、Sは三種類目の抗がん剤治療中だった。
三種類目・・・そう、最後の抗がん剤治療。一種類目と二種類目は、結果として効果が現れなかったと言う事か・・・。三種類目の抗がん剤は、日本製だからなのか副作用が前のものよりも少ないと言っていたS。「嗚呼、それは、きっと効果があったって事なんだ!」と一瞬安堵した私。

でも・・・。私、ぼんやりとだけど分かってしまったんだ。君の声の感じで・・・。君の体調が相当良くなくなって来てしまっているんじゃないか、って事を・・・。

肺ガンが相当良くない状態だと判った後も、入院中であるにもかかわらず、外出許可を取って仕事をしたと言うS。そして、どうしても無理な仕事は代役を立て指示を出して完結させたとのだと。それ程迄に自分の仕事に深い思い入れのあるSが、仕事を断る決断をしなければならなかった事は、どれほど辛く、悔しく、悲しい事だっただろう。考えただけでも胸が苦しくて涙が込み上げて来るよ・・・。

それ迄病気については、穏やかに、静かに、淡々と、時に説法するかのように話していたS。でも、この日は何故だか違うような気がしてならなかった。私には、Sが何かを悟ってしまったような、悟りを啓いたとでも言うのか・・・。何かこう、Sの眼差しや声から「無心」と言うか「無」そのものみたいなものが感じられて・・・。うーん、上手く言えないんだけれども、在るがままの自分を見、そして、在るがままの自分を受け入れている、とでも言うのか・・・。

何とも言えない気持ちを抱きながらも大学病院を後にする時、Sはエレベーターホール迄見送ってくれた。エレベーターが来るのを一緒に待ってくれていたんだけれども、点滴をしたままのSに申し訳なくて、「大丈夫、一人でエレベーター乗れるから。それに、ほら〜私が立たせてるみたいじゃん?」と悪態をつく私にSは笑いながら言った。「大丈夫〜、大丈夫って!」と。その笑顔は優しかった、とても。

そして・・・。
何とも言えない気持ちを抱いたこの日が、最後にSと会った日になってしまった・・・。