大切な何かが指の隙間からこぼれ落ちた日

その人が、少しずつ、少しずつ、その人では無くなって行く。
その人の姿、かたちはそこに在るんだけれども、その人の意識がそこから離れて行くような感じ、とでも言うのか。

その「感じ」を感じ取ってしまった時、人は途方も無い悲しみと絶望感に襲われる。

「大丈夫?」
2、3秒後「う・・・ん・・・」と答えるSの声が聞こえる。
その声でSの状況を察してしまった私は、携帯を持つ手が震えて止まらなかった。

この時Sは既に生まれ故郷に戻っていた。
大学病院を出た、と言う事・・・。祖母の時がそうだった。もう、ガンを治すと言う事に於いては治療の術が無くなった、と言う事。そして、そう遠くない未来に必ず命の期限の日がやって来る、と言う事・・・。

Sの声を聞いた瞬間、意識が朦朧としているのが解った。
意識が朦朧としているのは、そう・・・おそらく鎮痛剤としてモルヒネを投与しているから・・・。Sの病状が、もう既にその段階に入っているなんて・・・。

電話の向こうから咳き込む声が聞こえる・・・。
おそらく肺炎を併発している・・・。そう思うと、もう、いたたまれなくなって・・・。「大丈夫だよ。良くなるよ。祈ってるから!・・・今日はもう切るね。おやすみ・・・うん・・・おやすみ」と、泣きながら震える声で言う私。少しの間の後Sは「う・・・ん・・・」と言って・・・。

この時、何故か私は自分から電話を切る事が出来なかった。
きっと、一秒でも長くSと繋がっていたかったんだと思う。一分程過ぎても電話は繋がっていた。「どうしたの?」と問い掛けても返事はなかった。更に数分経っても電話は繋がっていた。もう、電話を切る事も出来ないくらいSの意識は朦朧としてしまっている・・・。そう思うと、益々涙が溢れた。

意識が朦朧としているのにSは電話をかけてくれたんだ・・・。だからこそ、悲しいけど多分もうこれ以上Sと繋がっていてはいけないんだ・・・。そう思うと私は「おやすみ、もう切るね」と言って電話を切って・・・。

この瞬間、ぎゅっと握り締めていた手の、指のほんの僅かな隙間から、とても大切な何かがこぼれ落ちてしまったような感覚に襲われた。そして、こぼれ落ちてしまった何かは、すくい上げる事も出来ず、戻って来る事もないような気がして、震えと涙が止まらなかった。

その後、私は何度かSに電話やメールをしたけれども、Sが電話に出る事も、メールの返事が来る事もなかった。

あの日が、Sと最後に話した、最後にSの声を聞いた日になってしまった。Sが旅立つ一月前の事だった。